この人を見よ (1969年) (岩波文庫)

ニーチェによるニーチェ全著作の解説。ニーチェの諸作品を、もう一度味わい直すような体験。手塚富雄訳になると、すべてが明解になる。明るく、歯切れよく、文意は鮮明であり、曖昧な箇所がなくなる。読み心地のよさも味わいつつ、風通しがよくなり、理解度が増す。岩波文庫でのニーチェの著作は何冊かあるが、どうしても古めかしさが残るもの（たとえば『善悪の彼岸』など）がある。この『この人を見よ』は手塚訳を得て、そうした災禍から免れている。『この人を見よ』は、ニーチェの44歳の誕生日（10月15日）を契機に書き始められ、11月４日には完成している。翌年１月にはイタリアの広場で昏倒し、その後は精神病院の人となる。ニーチェは、「やるべき事をやり終えた型」の生涯の人で、ここまでに書くべきものはすべて書き、言うべきことはすべて述べている。『この人を見よ』は、読者の年代ごとに感じ方が変わり、いつ読んでもその愉しさは変わらない。50代半ばになり、また再読しているが、はじめて読むように新鮮。ニーチェの快活さ、明朗さ、諧謔と明察。読んでいると、何かの光を浴びているように感じられる。数千年のヨーロッパ文明の終焉とリスタートの両方を一身に体現したような希有な詩人哲学者の、思想と文章の運動が、存分に味わえる。ただ、透徹した自己分析と、あまりに高すぎる自己評価が共存している。前者は暗雲を切り裂く稲妻のように煌めくが、後者にはついていけない時もある。紙一重の、狂気寸前の、ギリギリのラストダンス。